夢の島の歴史

「夢の島」は東京湾を埋め立てて作られた人工島であり、江東区の町名でもあります。
正式に地名となったのは1975年ですが、それ以前はただの愛称であり、
当時の正式名称は「東京湾埋立14号地」といいました。

今は緑あふれる公園になった夢の島ですが、かつてはゴミの島として有名でした。
しかし、最初からゴミの島だったわけではありません。
さて「夢の島」はどのように出来上がったのでしょうか?

夢の島の誕生
~飛行場? 東京のハワイ!~

江戸時代よりも昔の東京湾は、荒川・利根川などの多くの河川から少しずつ土砂が流れ込み、溜まった土砂により遠浅の海を形成していました。江東区は昔はその大半が海でしたが、江戸時代に盛んに埋め立てが行われ、現在の江東区が形作られました。
明治以降になると、東京に大型船をつける港を作るため、海の浚渫(海底を深く掘る)を行いました。そうして掘り出した土砂を海中に埋め立てて、人工島を作っていったのです。

現在の夢の島である「東京湾埋立14号地」は、戦時中に誕生しました。1938年に江東区沖に巨大な水陸両用空港「東京市飛行場」を作る計画が立てられ、その建設予定地として14号地が作られたのです。しかし、すぐに戦局が厳しくなり、飛行場計画は資材不足のため中止となってしまいます。

終戦から2年後の1947年、使い道が未定だった14号地に、海水浴場がオープンしました。その名も「夢の島海水浴場」。そう、この時からこの土地は「夢の島」と呼ばれるようになったのです。当時の東京湾は、高度経済成長による水質汚染が起こる前で、とてもきれいな海でした。
ビーチにはヤシの木が植えられ、「東京のハワイ」として宣伝され、家族連れなどで賑わったようです。しかし、たび重なる台風被害や財政難により、たった3年で閉鎖されてしまいます。その後、巨大遊園地を作る計画などもありましたが頓挫し、7年間放置されました。

夢の島の誕生イメージ

高度経済成長期
~夢の島はゴミの島?~

その後、日本は高度経済成長期に突入します。国民の生活は日増しに豊かになり、人口は爆発的に増え始めました。しかし、それに伴い都内で発生するゴミも急増し、それまでの処分場ではまかないきれなくなりました。

そこで、1957年からのゴミの埋め立て処分場として選ばれたのが夢の島でした。それにあたり、東京都は江東区に対し、ゴミによる公害を防ぐことを公約していました。しかし、当時のゴミ処分は、生ゴミなども燃やさずにそのまま夢の島に投棄するというものでした。東京で出たゴミの7割が江東区に集まり、毎日5000台の収集車で運ばれたため、夢の島はあっというまにゴミで覆われました。江東区内では渋滞や交通事故が多発し、収集車から道路へとこぼれた生ゴミや汚汁が悪臭を発生させ、夢の島からやってきたハエやネズミが住民の生活をおびやかしました。

極めつけは1965年。夢の島のゴミの山の中から発生したハエの大群が江東区の住宅街に襲来しました。ありとあらゆるものにハエが群がり、小学校では授業もままならないほどだったといい、この被害は4カ月以上も続きました。これは全国的なニュースで取り上げられ、夢の島は「ゴミの島」や「ハエの天国」として広く知られるようになりました。

その間、都はヘリコプターでの殺虫剤の散布などを行っていましたが効果はなく、ついに消防隊に要請し、重油を撒いて夢の島一帯のゴミを焼き払う「夢の島焦土作戦」が決行されました。同年11月に、2万個の毒団子によるネズミの殲滅作戦を行い、翌年、夢の島はゴミの埋立地としての役目を終えました。

高度経済成長期イメージ

東京ゴミ戦争

その後、ゴミの埋立地としての役割は夢の島の隣の埋立15号地、通称”新夢の島”(現在の若洲)に移りましたが、ゴミによる公害は続きました。1971年、江東区長が「江東区だけが都市のゴミ公害の吹きだまりにされるのはゴメンだ」と発言し、それに対し当時の東京都知事は「ゴミ戦争」を宣言し、各区で発生したごみは区内で処分するよう、ごみの焼却処分を行う清掃工場の建設を約束。今日まで続くゴミ問題が広く知れ渡るきっかけになりました。

その後、自区内への清掃工場の建設に猛反対する杉並区に対し、江東区が道路を封鎖してゴミの搬入を実力行使で阻止、ゴミの回収が中止となり、杉並区の路上にゴミが放置される事態にまで発展し、ゴミ戦争は終結に向かいました。現在でも東京湾へのゴミの埋め立ては続いていますが、ゴミは清掃工場で焼却されることで体積が約20分の1以下の灰となってから埋め立てられるため、生ゴミによる公害は無くなっています。

東京ゴミ戦争イメージ

夢の島公園の誕生
 ~ゴミの島からみどりの島へ~

江東区の清掃工場は、夢の島に作られることになりました。江東区からの要請に伴い、東京都は清掃工場建設の見返りとして、夢の島を公園化し、その中に清掃工場の余熱を利用した温室、体育館、水泳場、競技場、野球場の5施設を建設することを約束しました。

1974年に江東清掃工場が完成。翌年に「夢の島」が正式な町名となり江東区に編入。約束通り、体育館や水泳場なども順次開館しました。
夢の島の全域を覆うゴミの層の上に土を被せ、芝生や樹木を植えて緑化し、1978年(昭和53年)、「夢の島公園」がオープンしました。

植える植物の選定を行ったところ、潮風や荒れ地、乾燥に強いユーカリが選ばれたのだそうです。このユーカリの葉は、都内の動物園のコアラのエサとしても供給されました。その後、カナリーヤシやマルバデイゴなど熱帯・亜熱帯産の露地栽培ができる樹木なども多く植樹し、かつてはゴミの島と呼ばれた人工島は、異国情緒あふれる緑の公園に生まれ変わりました。

夢の島公園の誕生イメージ

夢の島熱帯植物館 開館!
~みどり・ゆめ・みらい~

それから10年後の1988年11月19日、ついに「夢の島熱帯植物館」がオープンしました。
約30年前に江東区が東京都に出した要望通り、清掃工場でゴミを燃やした際の熱でドーム内を暖め、冬でも熱帯植物を育成することができる温室です。開館当初のテーマは「熱帯・亜熱帯植物を生態的、景観的に展示することにより、都民に楽しみながら植物に親しみ、学ぶ学習の場と、レクリエーションの場を提供し、あわせて都市緑化思想と自然保護思想の普及、啓発を図る」というもので、この基本的な理念は開館から30年以上が経った今も受け継がれています。

夢の島の現在。そして未来へ。

夢の島公園では2018年に台風24号が直撃し、ひときわ高くそびえたっていたユーカリの多くが倒れ、数少なくなってしまいました。残ったユーカリは高所の伐採をし、その後の倒木を防いでいます。
夢の島公園のシンボルであり休日にはファミリーの遊び場だった「多目的コロシアム」は、TOKYO2020大会の予選会場にするため埋め立てられ、無くなってしまいました。しかしその場所に新しく「アーチェリー場」が完成し、オリンピックパラリンピックのレガシーとして、今後の活用が期待されています。平成の時代が始まる前年に生まれた夢の島熱帯植物館は、令和を迎えた今、コロナ禍での変化を余儀なくされています。今後もDXに積極的に取り組み、環境問題を考え、植物多様性を保護し、持続可能な未来に向けた運営を行って行きます。

参考文献

  • 国土交通省関東地方整備局 東京港湾事務所「東京港の歴史パンフレット」
  • 江東区発行「江東の昭和史」
  • “空から見た中央防波堤埋立処分場(航空写真)”. 東京都環境局
  • 東京都港湾局 (1994). 東京港史 第一巻 各論. 東京都. pp. 304-305
  • 『アサヒグラフ』1965年7月16日号
  • 「ハエの天国」と呼ばれた夢の島 東京二十三区清掃一部事務組合
  • 柴田晃芳「政治的紛争過程におけるマス・メディアの機能(2・完) -「東京ゴミ戦争」を事例に-」『北大法学論集』第52巻第2号、北海道大学大学院法学研究科、2001年、 573-601頁、 ISSN 03855953、 NAID 120000954908。
    ※画像提供江東区